戸田山 和久
ISBN-13: 9784480843203
たいていのよくできた作品は,教養ある大人の鑑賞にも耐えられるように二重構造で作られている。少なくとも作り手はそのつもりで作っている。
これは本当だと思う。ただ,その作り方は「オタク」と「大衆」の両方の購買意欲を刺激したいというマーケティングの要請によるものではないのか,そのように作られた二重構造を読み解ける観客になるということは「オタク」として映画産業のターゲット消費者にすすんでなる以上の意味を果たして持つのか,という疑問が湧く。
田中博基教養とはsomethingについてeverythingを知っていて,everythingについてsomethingを知っていることだ,という言葉がある。
私はこの言葉にあまり感心しなかった。人間の知覚において「everythingを知っている」とか「everythingについて知っている」などということはあり得ないのではないか。揚げ足取りのようだが,意外に大事な論点だと思っている。個人がある領域について全てを知り尽くすことも,全ての領域から何某かを知るということも共に不可能だと思う。
田中博基教養ある人はいろいろ知っているが、何が重要な知識で何がそれほどでもないかの判断込みで知っている。
自分の経験だと、買ったばかりで何も理解していない本はどのページのどの項目も似たり寄ったりに見えるが、何度も読んで項目間のつながりまで理解できると、そこに(視覚的に見えるものではないが)濃淡が生まれるように思えてくる。一冊の書物と本気で付き合うと言うことは、そこに濃淡を見出すまで読み込むということが言えそうだなと思った。
田中博基ダイアローグでは、やる前と後とで自分の考えが変わらなかったら、やった意味がない。
対話は尊いのだけれど、限界があると思った。
どんな議論をやってもディベートになってしまう人には私も辟易するところだし、真理の探究においては対話は非常に重要だと思うのだが、”よりよい生、よりよい世の中”のためには、それだけでは足りないと思う。特に「どんな議論をやってもディベートになってしまう人」が世の中にいる以上、そうした人とは「対話」以外の「対峙」の方法、「対決」の方法が必要となるだろう。
何事も、自分が好きか嫌いか、自分が理解できるかできないかで決める。こういう人は「生理的にダメ」とかすぐ言う。めちゃくちゃ頭の悪い表現だ。
私は、「自分が好きか嫌いか」「自分が理解できるかできないか」というのも大事にしないといけないのではないかと思う。芸術においては、特に作り手にとって「自分は何が好きで何が嫌いか」は重要ではないか。学問においても、自分が納得いっていない学説を「これまでの歴史で多くの学者が支持しているから」といった理由で支持してしまっては悪い意味での権威主義に陥ってしまう虞があると思う。自分が納得いくまで検討し続けるとか、どうしても納得がいかないから別の説を考えてみるとかを試みるから学問の発展があるのではないだろうか
田中博基