黒川伊保子
AIは、どこまで行っても、単なる道具に過ぎない。人間のようにことばを操るので、つい「人間のように考える」かのように感じてしまうけど、人間とは違う演算をしているのである。
著者のことは気に入らないが、この部分は的確で賛同できる。「AIも心を持てるようになる」などと手放しで言えてしまうロボット工学者よりはマシだなと思った。
私は、一般の人類より、少し早くAIに出逢った。1983年からAIの胎動を感じてきたAI専門のエンジニアなのである。
大袈裟で,片腹痛い。宣伝文句とは言え,「人工知能研究の第一人者」だなんて,よく名乗れるなと思う。誇大広告で消費者庁に怒られても文句言えないんじゃないか。
私が、敬愛してやまない天才脳の一人である。
こういう言い回しに虫唾が走る。チューリングの業績の重要性を述べるのに,その一文必要か?全編を通じてこうしたノイズが多過ぎて,実に辟易する。
「知能とは何か」を論じ始めたら、哲学的な領域に迷い込んで、いくらでも迷走する。境界線があやふやな概念を定義しようとすれば、必ず「切り落としたもの」が存在する。その重箱の隅をどこまでも突いてくる人がいて、真実を腐らせることになる。
「機械が知能を持つとはどういうことか」に対するチューリングの回答に「さすが,天才」と誉めそやして,この引用部分に繋がるのだが,人文学・哲学を軽視した教養にかける態度だと思う。ジョン・サールの「中国語の部屋」の思考実験を用いた機能主義批判などの哲学上の議論をすっとばして,「非の打ち所がない」というのはあまりにナイーブだと思う。抽象化によって切り落とされたものに目を向け,問い直すことは決して「真実を腐らせること」などではない。この後に「エンジニアには,『その先の究極の完成体』を目指して、重箱の隅をついて真実を腐らせる暇はない」などと続くが,なんて尊大なんだろうか。
身体性。
そのキーワードが脳に降りてきたとき、私は、これこそAIに欠けているものだと確信した。
(中略)
昭和の身体感覚を知っている私が、AIの誕生を見守ったエンジニアとして、AIの正体を明かさなかったら、この真実は埋もれてしまうかもしれない。そんな使命感に駆られて。
いかにも自分の専売特許みたいに「身体性」という言葉を使おうとしているが,そんなことは多少専門性のあるひとなら,みんなわかっていて,既に人口に膾炙している。「フィジカルAI」はとっくにビジネス界においても日常的に使用される用語となった。著者はふだん,優秀な研究者とも優秀なビジネスパーソンともろくに話をしていないのだろう。わけのわからない使命感を携えているが,誇大妄想である。メサイアコンプレックスなのだろうか。